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昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

150 温故知新

 現代の陶芸家の多くは、電話一本で簡単に全国の原料屋から、精製された土・釉薬を取り寄せて使ってしまう。このことに慣れてしまい、陶芸の本質を忘れかけています。

 本来陶芸家は、各地の山々を歩き原料を探し、各々のやり方で精製して、独自のやきものを作り上げてきました。
 しかし今のままでは世界に誇るべきこの陶芸文化が途切れてしまい、原料に対する愛情と、労働の神聖さも忘れてしまいそうです。

 日本を含めた東洋では、作家自らが山に入り、素地となる土や、釉となる石を探し求めました。
 石臼で砕き、燃やした木の灰を混ぜ独自の釉を作る。
 木を切り倒し割り薪として、これを用いて寝ずに窯を焚いてきました。
 すべてが体力仕事だったからこそ、作品には力が備わっていました。
 生命力がありました。

 これとは反対に西洋では、陶器は自然の一部ではなく征服すべき対象でした。
 18世紀までは、東洋の陶磁器は金(きん)より高く富のシンボルであり、錬金術師たちが血眼になって研究を重ね、やっと1709年ドイツのマイセン窯で白磁が生み出され、その後は産業革命により飛躍的に発展していった。
 西洋では不安定な天然原料をそのまま使わず、天然原料を科学的に分析して、特定成分だけを抽出・分離し、純度を高めた状態にして釉薬を調合する方法を築き上げた。
 こうして西洋では、個性はないが寸分たがわぬ陶磁器を大量生産する技術を手に入れ、この技術がいつしか東洋にも輸入され、現代の窯業となっています。

 これに比べ、昔の東洋のやきものは自然親和的で、画一的な大量生産には向いていませんが、作品の一つ一つの芸術的価値は高かったものです。

 東洋では陶磁器を、自然の一部として受け入れているが、西洋ではあくまで科学的成果です。

 現在は陶磁器を教える学校までが、東洋式ではなく西洋式の理論・技術だけを教えます。
 昔ながらの伝統技法を学ばないまま、陶芸家として生きてしまっています。

 日本には古くから「温故知新」という言葉があります。
 昔のことを尋ね研究して、そこに新しい考えを取り入れていくという精神文化が・・・。

 現在、刻々と日本中から、各産地のそれぞれの古き良き伝統技術が消えようとしています。
 私はこれを何とか止めたい。

 私ひとりの力など微々たるものでしょうが、私の夢は、昔の窯ぐれ職人のように各地で「ぐれ」て、腕を磨き、原料屋、陶工、築炉師、窯焚き師として、昔ながらにやきもの作り、全てが出来る職人として生きることです。

 人それぞれに天命というものがありましょうが、私は窯ぐれ職人を自らの天命として、古き良き日本のやきもの文化を学び、少しでも引き上げ、次の世代にバトンタッチしたいと考えています。
 一生修業の窯ぐれ職人街道まっしぐらと言ったところですかね。
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# by ogawagama | 2012-03-10 00:10 | 150 温故知新

149 作品鑑賞

 原料屋である私が、やきものの展示会を見に行く時、困るクセがある。

 純粋に造形の美しさを鑑賞すれば良いだけなのに、どうしても、素材は何を選び、どう精製し、どのように使っているか。
 そして、どのような窯で何時間かけ、どう焼いているのかという、作家の素材に対するアプローチの仕方ばかりを見てしまう。
 土とか、釉とか、焼成とか、やきものの工程ばかりを見て楽しんでしまう。

 土でも、瀬戸と美濃はこう違う。
 長石もそれぞれに個性があり、含鉄土石も然り。
 もっと言えば、その原料が取れた場所が南向きか北向きか、風が吹いているかいないか、湿っているか乾いているか。
 こんなことも大いに影響するので、果てしない想像をめぐらすことも多い。

 やきものは自然の素材を扱う為、必ず風土性を背負うもの。
 つまり、やきものとは、単なる製品でもなく、単なる表現でもなく、工程の全てを切り離す訳にはいかない。

 一つの茶碗を見て、作品だけの美しさを論じる事も出来るが、しかしそれでは全てを語りつくせない。
 やはり十分に論じようと思えば、土が何であり、どう精製し、長石は何をどう使い、灰は何の木を使ったのか、どんな窯でどの位置に置き、何時間どう焼いて生まれたのか、という全てを知ってこそ、本質が見えてくるのではないだろうか。

 器の表面の色・形だけでなく、全てをよく見て、判って、鑑賞すべきではないだろうか。
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# by ogawagama | 2012-03-10 00:03 | 149 作品鑑賞

148 プロセス

 私は時間があれば、山野を巡って、土、長石、含鉄土石を探す。
 その為、手元には、数えきれないほどたくさんの土、石が集まり、そのテストを繰り返し続けている。何故こんなことをするのか?

 自然界には無限の素材があり、これらの組み合わせで、ただの石ころが宝石以上のものとなる。
 この魅力にとりつかれ、この欲求はエスカレートするばかりで、今、手元にある美より、更に美しいものを知りたい、求めたい、作りたいという気持ちが抑えきれず、いつも、山野を歩き回ってしまう。

 また、見付けた土を使うにしても、山から掘ってきたばかりですぐ使うのと、良く寝かし、微生物が分解し、粘りが出た土では、まるで別人となることもある。
 特に削りにおいては、ロクロの回転速度を微妙に変えたり、手指の動かし方を微妙に変えたりしながら、その土に合った美しい表情を探し出すことは、実に面白い。

 高台を削る際は、その土にピッタリの削りのタイミングがあり、これを見計らって削ると、何とも言えない表情が生まれ、本人自身がゾクッとすることもある。

 私は、自然界にゴロゴロと落ちている原料の、それぞれの個性を見付け出し、「生かす」というプロセスに憑りつかれた男でもある。
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# by ogawagama | 2012-03-10 00:00 | 148 プロセス

147 日々新し

 私も陶芸家の端くれ。個展会場で「何か一言書いて下さい」と頼まれることもある。
 その際、いつも書くのが、「日々新し」私の座右の銘でもある。

 作品は自分の姿であり、自分が今をどう生きているかが正直に出てしまうもの。だからこそ現時点での自分の最高の力をすべて出し切って作品に向き合う。
 そして今日という日はもう二度と来ない。だからこそ、常に新たな気持ちを持って一日一日を生き抜き、今日出来る最高の仕事をする。
 こんな生活を重ねることによって、自分の次元を高めていけたらと思い、書かせてもらっている。

 私は芸術とは、人間を慰めるものではなく、人間を強めてくれるものであるべきだと思う。

 面白がらせるものでもなく、何かを考えさせてくれるものだと。

 日常の苦しみを癒すものではなく、苦しみに耐える力を興してくれるものだとも考えている。

 人間を引き上げ、進ませ、がっしりさせるものこそが、本物の芸術ではないだろうか。

 私にとっての憧れは、ミケランジェロ。
 彼は絵の具と石を用いてそれを創った。
 私は自分の生涯をかけて、炎を友として粘土で創り上げたい。
 目標は高ければ高い程良いと考えている。
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# by ogawagama | 2012-03-09 23:57 | 147 日々新し

146 作陶スタイル

 一品づつ時間をかけて丁寧に作る作家もあろうが、私はたくさん作り、たくさん焼くことを前提にしています。

 しかし、単に数を作れば良いというものでもない。千個作れと言われて、千個作るのは職人。作家であれば、理想の茶碗1個の為に、千個いや何千個作らなければいけないと考えています。
 だからこそ、まずは手を動かすこと、作ること、焼き上げること。
 この繰り返しの中からしか、本物は生まれてこないと考えています。

 例えば国宝の喜左衛門茶碗。
 どう見てもあれは腕の良い職人が、なるべく手をかけないで、たくさん作った茶碗の一つでしょう。

 一日何百も作らないと生活が出来ない為、いかに手をかけず少量の粘土で無駄なく作るかの毎日、その為に勢いと力強さが自然に備わり、当然見た目より軽い。
 釉がけも素早い為に、そこに偶然の景色も生まれる。
 焼けも、いかに少量の薪で、釉を早く溶かすかを考えて焚かれた為、釉の表面のみが焼け素地が焼き締まっておらず、その為使えば使う程色合いが変わり、味わいが生まれた。
 日常使いで使い込まれた為に生まれた、この独特な美しさを、日本の茶人が究極の美として取り上げ、いつしか国宝にまで高められていった。

 まさに日本独自の美意識である。

 私もこれが美しいと思い、これに習い、ここをこうすると良く見えるとか、ああだこうだと考えて作るよりも、昔の職人のように無心でたくさん作り、その中から自分の眼にかなうものを選び抜いていきたいと考えるようになった。

 オリンピックだったら明確に順位が付くでしょうが、美の世界は誰が一番なんて決められる訳がありません。
 だったら作家は、自分で目標を決めて、そのハードル1つづつ越えていき、生涯をかけて自分のレベルを上げていくしかありません。

 私にとっての基本は、数を作ること、焼くことです。
 そして時には美術館・骨董屋で本物を見て触れて、自分の選びぬく目を同時に高めていく。
 美しいと思うものの形・雰囲気をしっかり頭の中に叩き込んで審美眼を高め、自らの審美眼を頼りに何千個の中から、1個を選び抜いていかなければならないのだから。
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# by ogawagama | 2012-03-09 23:54 | 146 作陶スタイル