昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

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123 備前の歴史

 備前焼は邑久地方の須恵器に始まる。
 その後鎌倉時代に熊山へ移り、山の斜面を利用した幅1メートル・長さ7メートルの穴窯で山土を焼くスタイルに変わる。
 室町になるとその需要が高まり、流通も盛んになった為、器を運ぶのに適した山の麓に下りることになる。
 桃山に入ると、需要がますます増え、幅5メートル長さ50メートルの大窯時代となる。
 しかしその後は需要が減り、何処にでも見られるような、一般的な登り窯で一般的なものを焼くだけとなり、明治・大正・昭和と衰退の一途を辿ることとなってしまった。

 この流れを変えたのが備前焼中興の祖、金重陶陽である。

 備前が最も華やかであった桃山に帰ることを目指し、研究に研究を重ね、見事、桃山備前を復活させるに至った。
 当時、備前にあった登り窯では、焚き口のある部屋には、作品を入れていなかった。
 しかしこの部屋こそが窯変・サンギリを取るのに最適と考え、この部屋を大きく広げ、たくさんの作品を詰めるようにした。
 この部屋を「ウド」と呼付け、このウドと一番部屋でメインの窯変とサンギリを取り、煙道では独特な緋色の作品が焼けることにも気付き、ここを広げ「ケド」と名付けた。
 この部屋では美しい緋色のものを焼いた。

 逆にそれまでメインであった二番・三番・四番は焼けが面白くないのであえて全部取り払ってしまった。
 また部屋をつなぐ素穴の焼けが良いことも見逃さず、ここも広げ「秘密室」と名付けた。良いカセごまを取った。
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 こうして、時には寝食をも忘れ、何日も窯の中に籠り、炎の流れを考え抜き、窯を改良し続けた結果の賜物とでも言える独自の窯を完成させた。

 この窯をモデルに今では300人以上の備前作家が焼き物作りをしていることを考えると、まさに陶陽という一人の男がいたからこその、現代備前焼と言えよう。
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by ogawagama | 2012-03-08 23:22 | 123 備前の歴史