昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

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136 元禄バブル

 今から400年ほど前、長く続いた戦乱の世が終わり、やっと自由で闊達な時代を迎えられることになった。その時代の要請を受け生まれたのが織部焼。

 ただ使うだけではなく、見せる為の器作りはここから始まった。
 ファッションとしての器の誕生とも言えよう。
 ピリッとした堅いものもあれば、思わず笑ってしまうような柔らかいものまで、どこから着想したのか分からないような意匠もあふれ、まさに千変万化のデザイン。

 どうしてこのような斬新なものが次々に生まれたのだろう。

 その答えは、当時、史上空前の経済繁栄があったからです。
 平成バブルの100倍だとか。

 特に銀は世界の3分の1も産出しており、この銀を求めて世界中が殺到していたそうで、こうして世界中の美術品も次々輸入される中、都市の富裕層たちは、もっともっと新しく美しいものを欲しがり、京や堺の数寄者たちが中心となって、国産やきものもプロデュースし始めたのです。
 志野・黄瀬戸・唐津・備前・伊賀等。中でも織部の緑は異国情緒たっぷりの楽園のイメージと重なり大流行となりました。

 織部焼の最大の特徴は遊び心。
 ひずんだフォルム・非対称なバランス・大胆な模様。これらの器は「ヘウゲモノ」と呼ばれていたようで、これはかぶいた器という意味。
 奇抜な格好で、京都の街を闊歩していた若者たちのことを「かぶき者」と呼んでいたところから名付けられたようです。

 しかし流行とは怖いもので、次の元和年間には忽然とその姿は消えてしまう。まさにバブルの申し子の織部焼であった。
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by ogawagama | 2012-03-09 15:16 | 136 元禄バブル