昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

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1 履歴書

 
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人生とは分からないもの、不思議な縁により、今はこうして随筆を書いている。

 25歳まで私は、ヨーロッパ各地で油絵を描いていた。しかし、海外という地では日本人を強く意識させられ、日本へ帰ることになり、自分に何が出来るかを模索していたある日、黒い煙がモクモク上がっているのが見え、ふと行ってみると窯を焚いていた。初めてみる炎があまりに美しく、我を忘れそのまま2日手伝いをし、窯を焚き上げた。
 私は一瞬にして「炎の虜」となり、その後、美濃、伊賀、備前、萩、唐津、丹波、越前と、各地を渡り歩くことになる。その間、多くのことを学ばせてもらった。全国に薪窯をつくる仕事(築炉)、プロの窯焚き職人の下働き(薪窯焚き)、粘土鉱山、粘土工場、釉薬工場の手伝い(原料屋)、一日に300個の湯呑をつくる賃引仕事(陶工職)、ある窯元では1㎥3基 6㎥1基 10㎥2基のガス窯を毎日焚いた(釉つくり、施釉、ガス窯焚き)。
 
 いろいろな人と出会い、様々な経験をし、「陶土の里」岐阜県山岡町で独立をすることになった。仕事は順調に進み、銀座黒田陶苑を始め、各地のギャラリー、百貨店で年3回個展を開けるところまで辿り着いた頃、転機がきた。
 美濃陶芸を支え続けてきた熊谷陶料(岐阜県瑞浪市)から「明日から工場で働いてくれ」と、頼まれ、軽い気持ちで引き受けたのだが、社長は今まで従業員にさえ教えなかった原料屋としての知識、技術を全て伝え始め、2005年7月21日、仕事が終わった私の両手を握り、「あとのことを頼む」と言い残し、その夜、亡くなった。
 
 この時の両手の温もりが捨てられず、今は原料屋もはじめた。
 
 こうして「窯ぐれ」小川哲央が誕生したのである。
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by ogawagama | 2008-12-04 14:22 | 1 履歴書