昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

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11 織田信長

 李朝時代、朝鮮では、身分制度が確立され、陶工は最下層とされた。これを嫌って、渡来した陶工が多かったと聞く。行き先は九州が主だが、その一部は越前に渡り、越前街道を通り、美濃にも入ってきただろう。しかし、生活の基盤を持たない彼らが、やきものを焼くことは、応援者がなければ不可能である。
 一般には、瀬戸の陶工が戦火をさけ、美濃へ逃れ、桃山美濃陶の華が開いたと考えられているが、果してそうであろうか。美濃とて、武田、道三、織田がけん制し合っており、条件は同じはず。国を越えて、わざわざ命懸けで集団移動しただろうか。
 陶工集団は、火を焚いたり、土や石を求めて山野を駆けめぐっても、怪しまれることはない。つまり、敵状偵察には、極めて有利な集団である。
 
 このことを、あの信長は、見逃さなかったであろう。
 中山道の動きが分かる要所に窯が多いのは、敵の動向、物質の移動を探り易く、のろしを上げ、素早く通報する為ではないか。つまり、信長の命により、美濃の陶工たちは動いていたのでは。土着の陶工と、進んだ技術をもつ渡来の朝鮮陶工が、信長の擁護により、自由にやきものをやらせてもらえたからこそ、美濃陶が華開いたと考えてはどうだろう。
 
 実際に、信長の命で陶工が、軍事道路をつくった記録も残っている。
 芸術とは、優れた擁護者がいなければ、決して華開かないもの。
 
 果して、今回の話は空想か事実か?
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by ogawagama | 2008-12-06 16:40 | 11 織田信長