昔は窯場の職人のことを「窯ぐれ」と言った。全国の窯場を渡り歩き、今、尚、陶工、原料屋として、昔ながらの窯場の知識、技術を唯一引き継ぐ小川哲央の随筆をお楽しみ下さい。 (2012年3月改訂しました)


by ogawagama

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83 本来の民芸

「民芸品とは、民間で生まれ民間で使われるもの」
従って作者は、あくまで無名の職人。作られるものの姿は、あくまで素朴。形も単純だが、使い易さは抜群で、しかも丈夫である。作る時の心情は無心に近く、無駄がない為、そこには勢いが生まれたり、時に、強い生命力が込められたりもする。
 
使われる材料は、その土地の身近なもので、職人は一日に何百も作らなければならない。同じ形、同じ模様、同じ色の繰り返しで、その結果、職人は、何を作り、何を描いているかということさえ忘れて手を動かすだろう。
この無心さ故に、時に「究極の美」ともなる。

私は、民芸品の美しさは、自然と生まれるものであって、作られる美ではないと思っている。
この「無心」を尊いと考えるのは、日本独特の文化でもある。

天才がギリギリの努力をして、作り出す美だけが美ではなく、無名の職人が邪心を捨てて、無心に作る為に自然に生まれる美もある。

特に、陶器づくりにおいては、粘土づくり、ロクロ、上絵付、窯焚きと、いろんな持ち場があり、それらの人が協力して、一つの作品を完成させることが多い。「オレがオレが」の個人の名誉ではなく、全体として「良いものを作ること」が、重んじられる。こうして生まれた昔ながらの民芸の器には、無心の美が備わっている。

この無心の美で、私がよく思うのが「サヤ」。
窯詰めに使うサヤは、あくまで窯の道具である為、作るときは100個程を無造作にロクロで一気に挽き上げ、両手の2本の指で、さっと取り上げ、乾かしてそのまま使う。その上、一番火の強い所で、火楯として何回も何回も激しい炎の洗礼を受ける。私は、この無心で作られ、計算されず、何度も何度も焼かれたサヤが、自分の作品の中で、一番美しいと思うことがよくある。

一切のエゴから解放された自然に生まれた美だと。
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by ogawagama | 2012-03-07 10:57 | 83 本来の民芸