11 織田信長
2008年 12月 06日
一般には、瀬戸の陶工が戦火をさけ、美濃へ逃れ、桃山美濃陶の華が開いたと考えられているが、果してそうであろうか。美濃とて、武田、道三、織田がけん制し合っており、条件は同じはず。国を越えて、わざわざ命懸けで集団移動しただろうか。
陶工集団は、火を焚いたり、土や石を求めて山野を駆けめぐっても、怪しまれることはない。つまり、敵状偵察には、極めて有利な集団である。
このことを、あの信長は、見逃さなかったであろう。
中山道の動きが分かる要所に窯が多いのは、敵の動向、物質の移動を探り易く、のろしを上げ、素早く通報する為ではないか。つまり、信長の命により、美濃の陶工たちは動いていたのでは。土着の陶工と、進んだ技術をもつ渡来の朝鮮陶工が、信長の擁護により、自由にやきものをやらせてもらえたからこそ、美濃陶が華開いたと考えてはどうだろう。
実際に、信長の命で陶工が、軍事道路をつくった記録も残っている。
芸術とは、優れた擁護者がいなければ、決して華開かないもの。
果して、今回の話は空想か事実か?