76 まじめな豊蔵
2012年 03月 07日
とは言え、突然桃山の再現と言っても、その方法はすでに400年も途絶えており、誰も知らない。ただ毎日古い窯跡を探しては、陶片を拾い、それを参考にするしかなかった。
大萱(おおかや)という、電灯も引かれていない山の中にこもりながら、たった一人で。
志野を焼いた土は、もぐさ土と呼ばれる砂気の多い土。これを見つけては山から掘り出し、運び込み、天日干しし、木槌でハタいて、水を加え、粘土とする。釉に使う長石も方々歩いて、風化した長石を見付けては、昔ながらに水車を利用した石臼で丁寧に砕く。
こうして得られた不揃いの角の残った粒だからこそ、あの深みのある白となると信じ。
穴窯も当然手作り。彼の陶房から、一度谷川を下って、また登らないといけない、向かい側の山の尾根に築いた。傾斜15度、長さ4.5m、幅は広いところで2mのろうそく型。サヤに入れた茶碗が50個しか入らない、実に効率の悪い窯であった。
窯跡を丁寧に調べた豊蔵は、山頂に近いものほど、形は旧式だが、良いものを焼いていた点から、「これは、上の方が乾燥していて、且つ、下からの吹き上げの風を上手く利用していたからだ」と考えた。
その為、自らも、不便を知っていながら、あえて山の上に窯を築いた訳だが。あの当時、道もない山を、作品も薪も水も、全て自らの手で運び上げるしかなく、その苦労は、想像を絶するものであったろう。故に、弟子の豊場には、山裾に窯を築けとアドバイスしたと聞く。
現代の合理主義とは全く別世界で生き抜いた豊蔵。
その生活は、毎日芋粥だけで、電気はなく、日の出から日没まで働き、早々と寝るしかない。黙々と20年かけて志野の再現に挑んだからか、彼の作品は、まるで禅僧の姿にも見える。