しかし本音は、
1.自らが知り得た知識、技術を誰かに伝えたかった。
2.有名になりすぎて原料探しが困難になった。
この2点から、熊谷を適任者と選んだようである。
実際唐九郎には、6人の弟子がいたが、釉薬、原料、焼成等、一切教えなかったと聞く。しかし、熊谷にだけは、全てを伝えたのである。その代わりに、原料の仕入れをさせていたのだ。「あそこの土を集めておけ」「あの石を買っておけ」等。
人は自らの死を覚ると、自分の軌跡を残したいと思うのだろうか。ともあれ、唐九郎の知識、技術が熊谷に伝えられた。これが、次に、私に回ってきてしまったのだ。
熊谷は唐九郎との約束を守り、従業員にさえ、釉薬の調合、原料の仕入れ先、精製法、焼成等、教えなかったのだが、2005年3月を機に、この秘密を私に教え始めた。体長はすでに最悪だったろうが、体の動く時間全てを私に使い、マンツーマンの生活が4ヶ月続いた。そして忘れもしない7月21日。仕事の終わった私を自宅に呼び、強く両手を握りしめ、「後のことは頼むぞ」と、言い残し、その夜亡くなった。
最期の最期まで私に教え、見事に死んでいった。60年という年月を原料屋として生き抜いた見事な人生であった。志野、黄瀬戸、織部、瀬戸黒、昭和の美濃陶を縁の下で支え続けた、知る人ぞ知る男、熊谷忠雄。
彼なしに昭和の美濃陶は語れまい。
