そんな土器が作られ始めてから、日本のやきものは、日進月歩で、技術的にも、工芸的にも、向上していく訳ですが。
面白いことに、交通手段の発達していなかったあの時代にあって、北海道も、本州も、四国も、九州も、全国的に、同じ時代には同じものが作られていたのです。
不思議ではありませんか?
ロクロも無く、ただひも作り(手びねり)で。つまり、道具も使わず、粘土を指先だけで操作しながら形作る訳ですが、高さ、70㎝を超えるものもあり、これらが、狩猟の合間に素人が果たして作れたでしょうか?
私はそんなことを、ずっと疑問に思っていたのですが、最近、私の知人から、面白い話を聞きました。
ある縄文土器収集家が、自ら持つ、何個かの縄文土器の表面に残る指跡の指紋を、専門家に調べてもらうと、何と、全てが同じであったと。つまり、こういうことです。
全国を渡り歩いていた陶工が、数千年前からすでにいた、ということではないでしょうか。
それぞれの土地で粘土を見つけ、作り、焼く、やきものの専門集団が存在していたのでは。
確かに、何の知識・技術もない人間が、あのような美しい器を作れるとは思えません。あの縄文文様も、実は、ひも作りで生じる欠点、つなぎ目からのヒビ割れを防ぐ為の知恵であり、このことは、かなりの数を作らないと気付けないことです。
そして、一般の容器・食器は別として、あの美しい火焔式祭器は、今、我々が見ても、実に美しいものです。 その美しさに最も取り付かれたのは、岡本太郎でしょうか。