例えば、古備前水指、銘「青梅」。
ひも作りから、ロクロ成形に移ってまだ間もない頃の備前焼である。
この水指を見て、多くの人は、何と無表情なつまらない水指としか思えないであろう。一見する限り、訴えるものが何もないから仕方ない。
ロクロもまだ巧みではなく、何処にでもあるような円筒型の姿で、焼けも良くない。
光沢がなく、黒っぽい地膚に、褐色が少々にじんでいるかの風合い、当然、一般人には何も感じられない器であろう。
しかし、この何とも言えない風合いこそが、「無」に近付くことを目的とする茶席においては、大きな役割を果たしてくれる。このことを、本物の茶人は見抜くのである。
「無」と「冷(ひえ) 凍(しみ) 寂(さび) 枯(からび) が生み出す美」は、限りなく近く、茶の湯において最も大切なもの。
五感を研ぎ澄まし、自らの生涯をかけ、茶の湯を研鑽してきた初期の茶人たちにとって、茶の湯とは、「美に向かう」為のものであり、まさに、「禅の境地」そのものであったと思う。
果たして豊かすぎる現代の茶人に、何も語らず「青梅」を見せて、この良さを見抜けるだろうか?
初期の茶人は「冷(ひえ) 凍(しみ) 寂(さび) 枯(からび)」を求めた。
しかし、その後皮肉にも世の中は、これらをなくす為に、一生懸命努力して、豊かな物質文明を築き上げてきた。
「冷(ひえ) 凍(しみ) 寂(さび) 枯(からび)」は自分の心と体で実際に味あわないと決して分かるものではない。